健康で文化的な最低限度のブログ

生活保護のおっさん。暇だからPythonを勉強中。

さくらももこが死んだと聞いて、私は少し癒やされてしまった

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ちょっと書くか迷った内容だが、発泡酒を飲みながら書いている。

「のどごし生」

美味くもないがいかにも発泡酒という感じ。

 

さくらももこさんが乳がん?で死んだらしいのだが、私は報道を聞いて

「なんとまあ・・早すぎる」

などといかにも通俗的な事を言って、一応「ご冥福をお祈り」していた。

 

しかし、よくよく考えてみると報道を聞いて、私は薄っすらニヤリとしていた。

 

さくらももこのような完全な社会的成功者でも、突如ガンを宣告され、大変な闘病生活を送った挙げ句にあっけなく死ぬんだな。

 

という事実に私は癒やされたのだ。

 

こういうのは前にもあって、確かZARD坂井泉水さんが乳がんで飛び降り自殺をした時にも、「大変だなあ」と「お悔やみ申し上げる」と同時に、少し癒やされている自分がいた。

 

「負けないで」などという、上から目線の気持ちの悪いポジティブソングを歌う日本トップの歌手でも、たかだか乳がん程度の病気に「負けて」あっけなく死ぬんだな、と。

 

性格の悪いおっさんだなと自分でも思うが、「人の不幸は蜜の味」というわけでもない。

どうも仔細に自己分析してみると、むしろ「人の不幸は蜜の味」といったメシウマ的要素は、せいぜい3割以下なのではないだろうか。

 

ではなぜ社会的成功者の不幸に癒やされるかというと、

「みんな幸せそうだけど、そうでもないんだろうね」

という当然の事実に気付かされるからだ。

 

別に仲間意識が芽生えるわけでもないが、みんなこの世界の不条理と戦っているのだなと。

 

もちろん、全員が同じように不条理と戦い、苦悩しているわけでもない。

むしろ、大多数はある程度の荒波に揉まれながらも、平々凡々と80歳まで特別の不幸に見舞われる事もなく、普通に死んでいけるのが日本社会というものだろう。

 

街中ですれ違うイケメンと美人のカップルや、SNSに無数にいる優秀な人々。

彼らは明らかに幸福に違いない。

しかし、彼らとていつ不幸のどん底に落とされるかは分からない。

 

フランスで同時多発テロが起きる時、3.11で大勢の人々が死ぬ時、原発事故で避難を余儀なくされる人がいる時、中東で劣化ウラン弾により家族が皆殺しにされ、自身も後遺症に苦しむ人がいる時、

 

私は彼らの苦悩に共感し、嘆き悲しむ一方で、癒やされてもいるのだ。

 

苦悩しているのは自分だけではない。

不幸なのは自分だけではない。

 

もしも自分だけが不幸で、他の人々が全て幸福だったら、私は耐えられずに自殺しているだろう。

不幸な人間が無数にいるから、そこかしこに不条理があるから、どうにか私も正気を保っていられる。

 

考えてみると「人の不幸は蜜の味」という心理も、社会の中で相対的な幸福を求めているわけで、ある種の『社会性』と言えるのではないか。

 

「他人の不幸はとにかく悲しい。まるで自分の事のように苦痛を感じる」

 

そう言える人は立派な大人かもしれないが、嘘くさいし味気ない。

一緒に酒を飲めないだろう。

 

他者の不幸に共感せず、痛みを感じないわけでもない。

しかし、特段その不幸を嘆き悲しんでいるわけでもない。

むしろ、どこかその不幸を楽しんでいる自分を確認する。

 

その醜悪さと偽善に吐き気を催すと同時に、「人間なんてそんなものさ」と居直る自分がいる。