人生最後の日にアップルは創業しない

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有名なジョブズのスピーチの中でこんな言葉がある。

 

私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。日本経済新聞参照

 

katsugaku.jp

 

この記事がなかなか参考になるので、引用させて頂く。

 

 

私もジョブズの真似をして、「今日が最後の日だったら・・」と考えた事があるのだが、何も特別なことはしないなと思った。

かと言ってそれは私の人生や日常を肯定しているわけではない。

むしろ、どう考えても社会的価値もなくつまらない人生だろう。

 

どうも「今日死ぬとしたら」という仮定に無理がある。

 

ではその命の期限を1週間、一ヶ月、半年、1年、3年・・と伸ばしていけば変わってくるかというと、確かに変わるが切実度や緊迫感は逆比例して失われるようだ。

 

1週間なら箱根辺りに旅行に出かけるかもしれない。

 

1年ならどうするだろう?

金もないし世界旅行もできない。

そんなに特別やりたい事もない。

 

どうも今日死ぬとしても明日死ぬとしても1年後に死ぬとしても変わらない気がする。

 

今日死ぬとしたら浴びるように酒を飲んで映画でも見るかもしれない。風俗の女性も呼ぶかもしれない。ただそんなもんだろう。

 

一つだけジョブズと決定的に違うなと思ったのは、私なら人生最後の日にアップルは創業しないという事。

 

私が死ねば全て世界は終わり。

その後の世界なんて、少なくとも私とは全く関係ない。

そんなもののために時間は使えない。

時間が惜しいわけではなく、あまりにもどうでもいい。

 

今日明日死ぬというのに、いつもと同じように使うという人が信じられない。冒頭のサイトでもこう書いてある。

 

いつもと同じことをしようと考えるならば、あなたは自分の人生に誇りや満足感を感じているでしょう。「今日が人生最後の日」だとしても、命を使えるものに出会えたことに感謝しましょう。そもそも、活学では、昨日があったことを証明できないという考え方をしています。あなたの昨日の記憶は本物なのでしょうか?今朝、植え付けられた記憶ではないと証明できますか?レシートや物はただの記録や辻褄合わせに用意されただけかもしれません。証明することは不可能でしょう。昨日に囚われることなく、明日に囚われることなく、今日と言う日を味わってください。 

 

全く理解できない文章だ。

サラリーマンでそれなりに仕事に満足している人物なら、今日死ぬとしても会社でいつも通り仕事をする方が自然なのだろうか。

 

私はそんな人がいたら驚くのだが、どうも日本ではそれほど珍しい感覚でもないような気がする。3.11の時に津波が来ると分かっていながら沿岸部の職場へ戻った多くの人々は、「死ぬかもしれなくても職場に戻るべきであり、仕事のために死んだとしても本望」という感覚を相当に持っている。

 

正気の沙汰とは思えないが、彼らからみたら私こそ異常者だろう。

 

私は今日死ぬとしたら、単に酒を飲むだけだ。

10年後に死ぬとしても、やはり酒を飲む。