死ぬことよりも、物資的な転生が恐ろしい

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「え、生まれ変わりとか信じてるの?」

と聞かれそうだけど、信じてません。

 

では何が怖いかというと、いわゆる魂の生まれ変わりじゃなくて、「物質的な転生」のことです。

 

自分が死に、その元素が他の生物の一部となる。

私にとっては、それが十分に生まれ変わりです。

 

もちろん、動物や植物や虫の一部になっても、明らかにその意識(自我)の主体は私ではないので、私は生まれ変わらないわけですが、むしろ意識が本体であるというところに懐疑的なのです。

 

これは、

私とは何か?

意識とは何か?

という問題を孕むので哲学的問題ですが、私は哲学的な思考を展開しようと思っているわけではありません。

 

あくまで、私であった物質が他の生物として転換される、という事実が恐ろしい。

 

考えてもみて下さい。

具体的な例をだせば想像しやすいでしょう。

 

あなたが何の気なしに殺すゴキブリ。

殺虫剤をかけるのかもしれないし、新聞紙でパンと潰すのかもしれない。

 

あるいは、最近Youtubeの「Safari LIVE」というチャンネルで見る、アフリカのサバンナで行われる肉食獣による狩り。

バッファローやイボイノシシの内蔵を引っ張り出すライオンやハイエナ。

グロテスクな話ですが、ライオンは可能な限り生きたまま捕食するためなのか、お尻から食べるそうです。

 

普通の人はめちゃくちゃ気分が悪くなると思うので見ない方がいいです。

私も気分が悪くなります笑

youtu.be

 

こんな残酷な生物界の中に我々はいるのです。

しかもこれが無限に、半永久的に繰り返される。

 

よく「人間は残酷だ。動物は優しい」などと無知な人は呑気に言いますが、人間の残酷さなど激烈な生物界の生存競争から見れば失笑ものではないでしょうか。

 

確かにアウシュビッツで殺されたユダヤ人は大変な絶望と苦痛を味わったに違いない。

ガダルカナル島で餓死した日本人も、言葉にできないような飢えと苦しみの中で死んでいったのでしょう。

 

しかし、それは我々が人間で、人間中心に考えるから、途方もなく残酷に感じるだけで、生物界の残酷さの中のほんの一抹に過ぎない。

 

あるいは植物として生きるというのはどういう事なのでしょうか。

植物は苦痛を感じていないようにも思えますが、それもやはり人間中心主義であり、植物にも苦痛や絶望や孤独があるのかもしれない。

我々が想像できないだけでしょう。

 

あるいは、全くの無生物である岩や水ならば苦痛がないのでしょうか。

さすがにここまで来ると、やや観念的で現実からは相当離れた話になります。

 

私はかなり本気でこんな事を考えています。

だから、現実の自分の人生における苦痛や絶望や孤独も十分に味わっており、それが不快だからなるべく解決のために奮闘したり、逃避したりするが、世界全体、特に生物界全体の残酷さに比べると、人間の味わっている苦痛などタカが知れているようにも思う。

 

もっとも、ある精神科医

「人間の精神的苦痛による絶望こそが恐ろしい」

と言っていました。

 

私もかなり同意します。

他の生物は、自殺する能力がないのかもしれないが、人間はとにかくすぐに自殺する。

そんなバカな理由で?と他人が聞けば笑ってしまうような事で。

しかし、当人にとっては十分死に値する問題であり、切実なのです。

 

まあ、そういうわけで私の世界観は全体として極めて暗く、完全なペシミスト悲観主義者)であるといえます。

 

世界全体の悲惨さ、残酷さと比べれば、自分の人生がいかに惨めでつまらなく醜悪であっても、全くなんでもない、どうでもいい事だと思えるのです。

 

そこから不自然な楽観主義と、得体の知れぬ根拠の無い自信が湧いてくるのだと思う。

 

「なんでそんなに自信があるの?」

「偉そうだなお前」

などと言われるが、私の無自覚な「自信」や「偉そうな態度」は、上記のような思索からくるものです。

 

ところで、私はブログを『遺書』だと思って割と本気で書いています。

別にいつまでに死ぬだとか、こうなったら死にたいという考えはあまりないのですが。

 

すごく適当に、しかし本気で、書いているのです笑。

 

そうやって必死に書いたものでも、何かの画像が著作権や肖像権にひっかかり、ブログごと削除されるかもしれない。

あるいはデータサーバーが地震で破壊され、バックアップも同時にウイルスで消されればやはり消去される。

そんな偶然がなくても、何かの拍子に自分で恥ずかしくなって削除する可能性が高い。

 

あるいは書いたとしてそれが何なのでしょう。

誰も賛同せず、未熟な中年である事を失笑されるだけです。

 

まあしかし、こんなわけで、ブログは私にとって『遺書』なのです。